宗願寺について

歴史のこと
越後において流罪赦免された親鸞聖人は、常随の門弟西念坊の案内で武蔵の国足立郡野田(現在の埼玉県浦和市)の陣屋に草庵を結び地域の教化に力を入れた。宗願寺の開基は、この西念坊である。
西念坊は、寿永3年(1184)から正応4年(1292)まで生きた長寿者で、寺伝によれば信州小布施の城主井上五郎盛長の次男として生まれ、俗名を次郎道祐といった。道祐は武士であったが、承元3年(1209)父の遺言に従い、当時越後国府に流罪となっていた親鸞聖人の門に入り「西念坊道祐」と名を賜った。親鸞聖人を案内した武蔵の国野田の地は、井上氏一門の所領地であったといわれる。やがて聖人はこの地を去るが、西念坊はここを拠点にひたすら親鸞聖人の教えを信じ、教化に精進し、武蔵の国一円に念仏の教線を拡大し、やがて野田の草庵は武州総道場と呼ばれるようになった。

建保5年(1217)の秋、稲田から野田の草庵を訪れ、西念坊と庵後の丘に立って明月を仰ぎ「武蔵の国の四万村里の月影は安楽世界外ならぬかな」と風光を喜んだ。西念坊との歓談の中で、教行信証の構想と序文について語り、その冬、稲田で序文が発表された。列した西念坊は「浄土真宗のみ教えを宣ぶるにゆるぎなき典拠」と感激し、聖人は「門侶日頃の要望とわが宿願とがこのように・・・」と数珠を片手に両手を合わされた。西念坊は「そのお姿を」と希望して、一駆が制作された。この時の御文が、のちに教行信証の御文と定められたことから「一宇開劈御発起御満悦の御真影」と呼ばれている。この像は茨城県の指定文化財でもある。

正応3年(1290)聖人の曽孫覚如上人が、聖人の御苦労の跡を慕って、父覚恵上人と共に京都からはるばる下向したとき、西念坊は102歳の高齢で直弟の中ではただ一人生存していた。聖人の遺跡を説明する西念坊の胸中、感慨はどんなであったろうか。この時覚如上人は、西念坊の草庵に長命寺と称号を賜った。また、二人の東下には、康楽時(信州篠井に現存)浄賀が従っていた。浄賀はこの草庵で覚如父子と西念坊の連座の姿を描いている。宗願寺門外不出の寺宝「三人連座の御影」がこれである。約700年前の様子を伝える貴重な歴史的資料でもある。

その後、建武2年(1335)第3世正祐のとき、新田・足利の兵乱を避け2班に分かれて武蔵の国野田をひきはらった。7年後の康永元年(1342)下総の国古河のを選んで地を選んで新たに堂宇を建立し、ここに時基を移した(康正元年=1455とする説もある)。旧地を票して「足立山野田院宗願寺」と称した。

現在の古河の宗願寺は、この後約300年、慶長6年(1601)再建されたことによりはじまっている。当時は寺域数千坪を擁し、寺観由緒を兼ね備え隆盛をきわめ、日本十三御坊の一つに選ばれ「下総古河の御坊」と称された。それから約200年間偉容を誇った宗願寺は、弘化3年(1846)正月に大火災に遭い、一挙に廃墟と化す災難をうけた。多くの宝物もこの時消失してしまったという。それから、細々ながら法灯を守る受難の時期が明治8年(1876)まで続く。この年福島県会津若松から井上宗観が古河に来て、荒廃した堂宇を修復し、新な伝道活動をはじめ、宗願寺復興に尽力するのである。 宗願寺の歴史は困難の連続であった。しかし親鸞聖人の教えは絶えることなく現代にまで受け継がれ生きている。


新いばらきタイムス社「親鸞のふるさと」より

寺宝のこと
阿弥陀如来立像
 
像高66cm 寄木造・檜材・彫眼・漆箔。
上品下生の来迎印を結んで蓮台にお立ちになっています。
寺では恵心僧都の作と伝わりますが、室町時代末期の作と考えられています。

親鸞上人像(茨城県指定文化財)
 
親鸞聖人45歳の像と伝わっています。
像高48cm 寄木造・檜材・彫眼。
作風から室町時代はじめのものと考えられています。

三人連座御影
そのほかのこと
本堂左手奥には、樋口一葉研究を極め、直木賞ほか数々の文学賞を受賞した作家、
和田芳恵(1906—1977)の墓がひっそりと佇む。

築地本願寺ホームページ「TERA MACHI」内、宗願寺の紹介ページ
https://www.tera-machi.jp/temple/2784/